フィクトセクシュアル宣言:その位置、政治的可能性、そして批判的抵抗
撰文:SH Liao[彼の人・they/them・TA](台湾Fセク集散地・台湾大学オタク研究読書会)
現在のアセクシュアルの理論化と同様に、二次元キャラクターへの欲望は、私たちにセックスが何であり、どのように法的および社会的な規定が性的アクセスと完全な性的市民権の権利を否定しているか再考させます。(Elizabeth Miles 2020. 274.)
漫画・アニメという虚構空間において、自律的な欲望の対象を成立させること。まさにそれこそか、おたくの究極の夢ではなかったか。「現実」の性的対象の代替物にすきない「虚構」などではなく、「現実」という担保を必要としない虚構を作り出すこと。どんなに緻密な虚構世界を構築してみせても、それだけではもったく不足なのだ。虚構が自律的なリアリティを獲得するためには、虚構それ自体が欲望される必要がある。(齋藤 2006: 298)
この文章は、新しい運動の幕開けを期待する宣言であり、また二つの重要な論文に関する序文でもあります。これらの論文は社会学者である松浦優先生によって執筆されました。松浦優先生は、「現実の他者に対して性的な魅力を感じない人々の存在の不可視化と抵抗」に関する研究を行っており。その論文は「フィクトセクシュアル」に焦点を当てており、正確には日本語文脈で「二次元」と関連するフィクトセクシュアルのテーマを取り上げています。二つの論文は以下の通りです:
松浦優。2022。「メタファーとしての美少女──アニメーション的な誤配によるジェンダー・トラブル」。『現代思想』。50(11): 63-75。
松浦優。2022。「アニメーション的な誤配としての多重見当識──非対人性愛的な「二次元」へのセクシュアリティに関する理論的考察」。『ジェンダー研究』。(25): 139-157。)
その中で、前者は「二次元」へのセクシュアリティがどのように成り立つ事が可能か、なぜ真剣に取り組むべきかについて議論します。一方、後者は補論として、「二次元」の明確化とフィクトセクシュアルがどのように社会・性的状況を変えるかに焦点を当てます。私たちは松浦優先生に感謝しており、論文の繁体字中国語訳を公開することを許可していただきました。また、関連する問題についてさまざまな助言をいただきました。
論文をより理解しやすくするために、関連する文脈を提供します。まず最初にフィクトセクシュアルの文脈と特異性、次になぜ彼らが抹消され不可視化されるのか、そして最後に彼らの政治的な位置と提起すべき批判について説明します。
フィクトセクシュアルは、他のセクシュアリティや一般的なアニメ・マンガファンとどのように異なるのでしょうか?「性的指向」が当てはまらない一つセクシュアリティとしてのフィクトセクシュアル
フィクトセクシュアルは、「虚構物に性的魅力を感じるが、生身の人間にはほとんどそのような感情がない」という意味であり、また広くは「虚構のキャラクターに対する性的/恋愛的/結婚への魅力や欲望を感じる」としても言及されます。英語圏では、フィクトセクシュアルはアセクシュアル・スペクトラムの一員として理解されています。アセクシュアル・スペクトラムのメンバーとして、彼らのアイデンティティは完全に「異性愛マトリックス(heterosexual matrix)」に基づいていないため、性的指向の概念が適用しにくいです。これはアセクシュアルがセクシュアリティでないことを意味するわけではなく、アセクシュアル・スペクトラムは性的指向に対するより動的な理解を提供し、社会的な「強制的性愛(compulsory sexuality)」に批判的なアプローチを示します。フィクトセクシュアルは、この新しいセクシュアリティの認識枠組の中で用語とアイデンティティとして承認されています。
しかし、これはフィクトセクシュアルがゼロ年代以降のアセクシュアル運動の出現とともに存在し始めたわけではなく、以前から様々な他のアイデンティティとして認知されていました。その中でも主要なものが「二次元コンプレックス=二次コン」です。1989年に出版された「オタクの本」では、「二次コン」が「第三の性」として取り上げられていました。しかしながら、実際にはこれら数十年間、フィクトセクシュアルはセクシュアリティとして真剣に扱われることはほとんどありませんでした。人類学者P. W. ギャルブレイスがオタク史を再検討する際、斎藤環の精神分析的オタク論を引用し、このようなセクシュアリティを「虚構への一つ欲望の指向=見当識(an orientation of desire toward fiction)」として取り上げて注目しました(Galbraith 2019)。しかしながら、斎藤環の理論は「異性愛マトリックス」の枠組みを超えるものではなく、ギャルブレイスもこの「指向=見当識」を詳しく分析や理論化はせず、それが「同性愛」「異性愛」の「性的指向」とは異なるものであるとは説明しませんでした。この状況は、松浦先生がこれらの2つの論文で「アニメーション的な誤配としての多重見当識(multiple orientations of animating misdelivery)」の概念を用いてフィクトセクシュアルの位置と可能性を明確にしたことで変わりました。元々は精神医学の文脈から生まれた「多重見当識」の概念は、アセクシュアル・スペクトラムの動的な変化を説明するために取り入れられ、狭義の「性的指向」の概念を複数形に拡張するために用いられています。
一方で、今日の東アジアではアニメやマンガが主流化しており、さまざまなメディアやフィクションが私たちの社会生活に増加していることから、架空のキャラクターに感情を抱くことは珍しくありません。日本の若者の中では、調査によれば約10%以上の割合が架空のキャラクターに恋愛感情を抱いたことがあるとされています(日本性教育協会、2019年)。しかし、フィクトセクシュアルは他の「アロセクシュアル=有性愛」的なアニメやマンガ愛好者とは異なります。ファンダムの中でも、彼らは排除されたり保護されなかったりする可能性があります。なぜなら、彼らは異なるタイプの性的/感情的な生活を持ち、架空のキャラクターに異なる感情を向け、異なる方法で関わり、異なる不安やプレッシャーを抱えており、さらには異なる種類のスティグマ化、中傷、屈辱、沈黙としての象徴的暴力( symbolic violence)に置かれる可能性があるからです。しかしこのような違いについては、少数の学者や提唱者を除いて、まだ十分に注目されていない状況が続いています。
それにもかかわらず、フィクトセクシュアルは同時にオタク、 BLファン、百合ファン、夢創作界隈など、さまざまなコミュニティに属することがあります。彼らはファンダムの資源を活用して、虚構の存在との関係を築き、生きる場を見つけることもあります。しかし、最も重要なのは、彼らが既存のセクシュアリティ枠組を超える可能性をもたらすかもしれないとしても、既存のセクシュアリティの認識枠組において、フィクトセクシュアルは可視化されず理解されない存在とされ、趣味や変わった嗜好として扱われ、また「正常な人々」の窃視症を満たすための対象とされることがあります。彼らが直面する不安や孤立感、恥じらいは、適切な理解や支援を受けているとは言い難いものです。以下の例でも示されているように、彼らは病理的な視点からスティグマを着せられることもあります。
なぜフィクトセクシュアルは真剣に受け止められないのでしょうか?「抹消/予め排除」と対人性愛中心主義
2020年には、台湾のTwitter上にLGBT+プライドフラッグを紹介するツイートが現れました。様々なアイデンティティを示した後、その中にフィクトセクシャルが含まれていました。しかし、このツイートへの最初の返信は、LGBT+を支持するか反対するのではなく、むしろ「フィクトセクシャルは偽物だ、LGBT+に含まれるべきではない!」と激しく非難しました。このような無知に基づく否認は、フィクトセクシャルの日常です。フィクトセクシャルの概念が日本語圏で広まるにつれて、フィクトセクシャルはこの象徴的暴力を「対人性愛中心主義(Human-Oriented Sexualism)」と呼びます。松浦先生の以前の研究(2021)では、この「現状改変の試みを無効化しようとする」という象徴的実践を二つに分類しています:それぞれ「①予め排除(foreclosure)— — 理解不可能化」、つまりその存在を認識枠組の外に極少数の例外として排除し、また「②抹消(erasure)——不可視化」、既存の支配的認識枠組に回収でその存在の特異性を否認することです。これら二つの象徴的暴力は、フィクトセクシュアルの声や訴えを無意味化、同時に社会を変える可能性も奪っています。
対人性愛中心主義の先入観では、すべての欲望は人間への欲望=対人性愛である必要があり、虚構の人工物は現実の贋作や代替品に過ぎないとされています。ネット民だけでなく、浅学なエセ批評家たちも同様です。例えばこの二人の学者が示した悪質な学術遊び:
オタクはペドフィリアを嫌うと主張します。しかし、ペドフィリアの自己満足と同様に、マンガ美少女を通じたオタクの自己満足は致命的な結果をもたらすかもしれません。彼らは現実の女を愛することができないため、結婚に失敗し、その性欲は…生殖生物学的な意味で満たされることはありません... オタクはブルジョワ結婚市場では敗者です... (Yiu & Chan. 2013: 862. 強調引用者)
この二人は、「オタク=ペドフィリア」という社会神話を広めるだけでなく、強制的(異)性愛から、フィクトセクシュアルを「致命的な結果」として「予め排除」しようとしています。つまり、フィクトセクシュアルを理解できず、理解する必要もない病的な例外として簡単に排除して議論の対象外にしようとしているのです。私の見解では、これは彼らにとって、フィクトセクシュアルが「転向療法」を受け入れる必要があるという暗示であり、ただそのことを「オタク的なまなざしのグローバリゼーション」といった学術的な言葉で飾っているだけです。私たちがフィクトセクシュアルをセクシュアリティとして真剣に受け止めるならば、この論理の飛躍は保守的な右派が性的少数者に対してする威嚇的な発言と同じではないでしょうか。これ以上明白な対人性愛中心主義はありません。最も有名な知識人でさえ、簡単にフィクトセクシュアルの存在を「抹消/予め排除」するかもしれない、上野千鶴子の物議を醸す発言のように:
オタクが「女と付き合うのは、めんどうくさい。それよりギャルゲーがいい」といったりしますね…もし、そのゲーム[引用者註:生身の女が男の幻想の中での「ヴァーチャルな女」を演じること]に参入する女がいたら、そこは当然きしみや違和感が発生し、ノイズが発生します。彼らはそのノイズの発生を、「めんどうくさい」と言います。でも、関係というのは、めんどうくさいもんなのです(笑)。めんどうくさがる男たちが、実際のインタラクションから完全に撤退してくれたら、それはそれでいい。ギャルゲーでヌキながら、性犯罪を犯さずに、平和に滅びていってくれればいい。そうすれば、ノイズ嫌いでめんどうくさがりやの男を、再生産しないですみますから。(上野千鶴子2006:433–434;強調引用者)
この上野に対するインタビューの中で、「女と付き合うことに疲れた」人々は「平和に滅び」と考えられていました。上野の対人性愛中心主義によって「抹消」された、すなわち「ノイズ」としてのアセクシャルと強制的性愛との闘争の可能性、そして「美少女」や「二次元」が非人間の人工物としての存在論的可能性;上野はフィクトセクシュアルの存在を暴力的に対人性愛中心的な主流枠組みに取り込み、それによってそれらの存在の意味を消し去り、社会を変える可能性を排除しました。上野が犯した還元主義は、単なる性別二元論にとどまらず、プレシアドが『カウンターセックス宣言』で批判したファルス中心の還元主義でもあります:
精神分析的語言への愛着が、多くのレズビアンやトランスジェンダーというセクシュアリティのフェミニストやクィアな解釈が、ディルドをファルスとの関係を超えて理解することを妨げてきました... ディルドは性的技術として... 身体の性的可塑性および輪郭やアイデンティティの可能な義体的修正の操作者となります。(Preciado. 2018. 63–64. 強調引用者)
プリシアドは、ディルドおよび技術的な時代の私たちの身体に注目し、人工物としてのエージェンシーと可塑性を強調し、ディルドをファルスという精神分析的幻覚に取り込むべきではないと主張しています。これに理解できずに無視するのは、対人性愛中心主義の言説、つまり以下に述べる「〈字義どおり化〉という幻想(literalizing fantasy)」です。
似たような問題は、テレビアニメ『攻殻機動隊 Stand Alone Complex 2nd GIG』でも見ることができます。その中で「素食の晩餐 Fake Food[S2E8]」と題されたエピソードでは、台湾仏教の素食料理に質問が投げかけられていますが、キャラクターのバトーとトグサの会話では、本質主義的な答えしか提供されていませんでした:
バトー「…[台湾の素食と]日本の精進料理と違う所は、素材をそのまま調理せず、豆やキノコの類を細工して肉や魚を再現している所にある…」
トグサ「…でもさ、何故台湾の坊さんはそんな面倒な料理法を思いついたんだ。初めから肉の味を知らなきゃそんな必要無い訳だろ。」
バトー「そりゃそうさ。だがな、誰だって仏門に入る前は何でも食えるんだ。幾ら修行の身でもその頃の記憶を消す事は出来ねえよ。」(13:30–14:15)
バトーの回答は、「素肉」が最初は一般の人々に向けて普及されたという人間仏教の歴史を脱文脈化し、同時に、長い間さまざまな料理技術の中で、台湾の「素肉」が「肉」とは独立した「料理」として存在することを否認しました。その結果、素肉料理が単なる肉料理の代替品だけでなく、誰もが楽しむことができる「料理」であるという事実を無視しています。これによって、単に素肉を好む「素肉愛好者」の存在が抹消されています。しかし、料理の好みとは異なり、類似した論理がセクシュアリティで採用されると、対人性愛中心主義の象徴的暴力となります。このような対人性愛中心主義の言説とは対照的に、松浦先生の二つの論文で議論され、理論化されたのは、非対人性愛としてのフィクトセクシュアルの存在可能、および現実世界での規則や規範の再生産を空転させている「アニメーション的な誤配によるジェンダー・トラブル=アイデンティティの攪亂」の可能性です。
対人性愛中心主義にとって、フィクトセクシュアリティは人間への欲望ではないため、セクシュアリティとは見なされない(「フィクトセクシャルは偽物だ」)。そのため、フィクトセクシュアルは他のセクシュアリティを持つ人やLGBT+の一員としては資格がないとされます。さらに、彼らはフィクトセクシュアルに「転向療法」や「平和に滅び」を施すべきだと主張しています。これらの事例は、蔓延する対人性愛中心主義がフィクトセクシュアルに対する圧迫的な戦略を採用しており、一方でフィクトセクシュアルに劣等感を植え付け、もう一方では彼らの存在意義を「抹消/予め排除」しようとしていることを示しています。このイデオロギーの下で、ゼロ年代以降ますます横行する表現規制、萌えフォビア、Fix Artなどが、フィクトセクシュアルの生存空間を圧迫しています。現在の社会状況に直面して、第三波フェミニズムとクィア運動の未完の使命の下で、私たちはフィクトセクシュアルのプレケアリアスな位置に向き合う必要があります。このような視点は、アイデンティティ政治が共存する新自由主義社会の中で、「どのように社会を変えるか」という問題を再び強調する可能性にも広がっています。
フィクトセクシュアルの政治的可能性:アニメーション的な行動における誤配可能性
そもそもキャラ図像に対して「生身の身体」の写像、あるいは誇張されたステレオタイプ以外の読みの存在を認めないのであれば、フィクトセクシュアルが欲望の対象とする<もの>自体の水準は見えてこない。繰り返すがそれは現実の否認にほかならない。(伊藤剛2022:438)
伊藤が述べたように、フィクトセクシュアルの欲望対象は常に虚構的人工物です。これは認識されるべき事実ですが、既存の研究では「虚構と現実」という問題が混淆されてきました。松浦先生の二つの論文では、既存の研究で行き詰まった理路を整理し、虚構への議論において人工物の存在論的実存が任意に還元されるべきではないことを指摘しています。テリ・シルヴィオの「アニメーション対パフォーマンス」という知識的革命に基づいて、フィクトセクシュアル関係において人工物の存在論を見直すことで、フィクトセクシュアルが人工物に生気を吹き込む(animating=breathing life into)過程において、既存の象徴的秩序と社会的規範が攪亂される実際の出来事が起こっていることが示されています。松浦は、東浩紀によるフロイトのデリダ的解釈を引用しています:
デリダの「エクリチュール」という術語は…同一性をもたない記号の運動を指示するとされている。したがって表象代理(引用者註:Vorstellung-Repräsentanz)をエクリチュールに読み換える…シニフィアンによるイメージの止揚がつねに失敗すること、欲望の宛先がつねに不完全にしか同定できないこと(誤配可能性)を意味する。(東浩紀2011 : 253)
そして、一旦私たちは非人間の存在論的実存を還元しなくなった場合、私たちはアイデンティティのパフォーマンスという人間中心的論理とは異なることに気付くでしょう。それは「『二次元』へのセクシュアリティ/非対人性愛的多重見当識」がもたらす攪亂です:
誤配とは、情報の送り手と受け手の間で、非人間的アクター(記号、言語、メディアの物質性など) がもたらすズレである。その誤配によって、記号そのものがイメージと化し、表象代理が「代理」ではなくなる。これによって、現実世界を表象代理する記号だったはずのものが、それ自体として新たなカテゴリーの存在物となる。すなわちアニメーション的な誤配よる攪乱とは、以前には存在しなかったカテゴリーの存在物をアニメーションによって構築することを通して、知覚の仕方や欲望のあり方を変容させることである。(松浦優2022a:68,強調原文)
アニメーション的な行動に従って、シニフィアン(象徴界)にイメージ(想像界)を入力という「誤配」は生成する、私たちの知覚と欲望がそれによって攪亂しています。それが「二次元キャラクター」、「ディルド」、「素肉料理」など、新たなカテゴリとしての存在者となり、異なる感知情報や欲望の経路、技芸、倫理を提供しています。
そいう攪亂の可能性は、松浦先生が言及する「誤配可能性」とも呼ばれ、フィクトセクシュアルの政治的可能性です。バトラーが望むジェンダー・トラブルは、この過程を通じて別の側面から可能になります。そいう攪亂は、ガルブレイスがオタクの系譜学研究やフィクトセクシュアルと架空の存在者との微視的関係性ように、セクシュアリティの領域に触れるまで燃え上がります。さらに、羅盤針が台湾の「偽娘」に関する民族誌や最近の「バ美肉フォーム」などのように、「ジェンダーの多重存在論を明らかにすることもあります。(羅盤針、2021)」そのような撹乱はジェンダー秩序だけでなく、セクシュアリティ、親族、生殖など象徴的秩序の再生産、さらには人間と非人間の境界においても起こります。この「アニメーション」によってもたらされる攪亂は、劇場版アニメーション『攻殻機動隊:イノセンス』のキャラクター、<ハロウェイ>がトグサとの対話で述べたように:
<ハロウェイ>「...アンドロイドやガイノイドは,功利主義や実用主義とは無縁な存在だわ。何故彼等は人の形,それも人体の理想型を模して作られる必要があったのか。人間は何故こうまでして自分の似姿を作りたがるのかしらね…[喫煙]…貴方子供は。」
トグサ「娘が一人。」
<ハロウェイ>「子供は常に人間という規範から外れてきた。つまり確立した自我を持ち、自らの意志に従って行動する者を人間と呼ぶならばね。では、人間の前段階としてカオスに生きる子供とは何者なのか。明らかに中身は人間とは異なるが人間の形をしている。女の子が子育てごっこに使う人形は実際の赤ん坊の代理や練習台ではない。女の子は決して育児の練習をしているのではなく、むしろ人形遊びと実際の育児が似たようなものなのかもしれない。」(00:16:20–00:17:30)
「ごっこ遊び」というアニメーション的行動において、「誤配可能性」は、人形――移行対象が新しい存在者として発見される可能性です。しかし、<ハロウェイ>のポストヒューマン的な主張に対するトグサの怒れる否認のように、この攪亂効果は社会を常に変えるわけではありません。なぜなら、「(誤配は)放っておくと生まれなくなる(東浩紀 2020 : 92)」からです。トグサの否認で行われるのは「移行対象の破却」であり、最終的に「ごっこ遊び」というアニメーション的行動は「ただ意味を失う」という結果に終わります。これはある社会的惰性が存在することを意味し、いろいろ変化の可能性を持続的に「抹消/予め排除」しようとする。その惰性とは、前述の「対人性愛中心主義」という象徴的暴力なのです:
非対人性愛的な多重見当識とは、アニメーションによって構築された対象をめぐる欲望であり、そして対人性愛文化のなかから歴史的に派生したものでありながら対人性愛を相対化するものなのである。しかし他方で、このようなセクシュアリティの存在は社会で巧妙に不可視化されている。(松浦優2022b:152)
対人性愛中心主義に対する批判的抵抗:対人性愛を相対化=脱自然化する
そいう象徴的暴力に対して、これらの二つの論文はバトラーの「〈字義どおり化〉という幻想」の概念を引用して、対人性愛中心主義を批判しています。バトラーは「〈字義どおり化〉という幻想」を用いて異性愛マトリックスを批判し、この用語を使用して、欲望とアイデンティティがある唯一無二で本質的で字義どおり化のモノ(自然化された性器)に結びつけなければならないとするイデオロギーを指摘しています。異性愛マトリックスが従わなければならないのは、この「〈字義どおり化〉という幻想」のためです。そして、松浦先生の解釈では、この「異性愛的な対人的欲望をすべての欲望の根源と見做す」という「〈字義どおり化〉という幻想」が、性別二元論と対人性愛中心主義の悪性腫瘍を生み出し、フィクトセクシュアルの「誤配可能性」を事前に抹消/予め排除し、前述のようにフィクトセクシュアルを不可視や理解不可能というプレケアリアスな状況に押し込んでいます。したがって、フィクトセクシュアルは他のジェンダー非従属(gender nonconforming)の人々と同様に、似たような周縁化された状況や抑圧的な論理に直面しています。しかし、私たちも連帶し、〈字義どおり化〉という幻想を抵抗し、それを解体する可能性を持っています。
したがって、フィクトセクシュアルであるかどうかにかかわらず、私たちは対人性愛を相対化=脱自然化し、対人性愛を自明=自然的ものと見做さないことに基づいて抵抗し、生存し、言説し、実践し、関連する倫理を形成する必要があります。これはフィクトセクシュアルが自身の政治的位置と生存の余地を見つけるのに役立つだけでなく、私たちが虚構物との関係や状況に適応し、アングザイエティやストレスを緩和するのにも役立つかもしれません(Karhulahti & Välisalo、2020)。さらに、この保守的な社会で生き抜くためには、〈字義どおり化〉という幻想を解体するために、親近性(affinity)に基づく連帯の結びつきを探求する必要があります。そのような連帯政治は、様々なアセクシュアル(A-Spec)や対物性愛や非対人性愛などを含むだけでなく、オタクや夢創作やBLや百合などのコミュニティを含むべきであり、およびトランスジェンダーやノンバイナリや様々なジェンダー非従属のコミュニティや異なる流派のフェミニズムなども含まれるべきです。(連帯政治に関する詳細は、「対人性愛中心主義とシスジェンダー中心主義の共通点」という記事をご覧ください。)
それから、そのようなサイボーグの町では、人間と非人間が絡み合う世界で、最後に私たちが見るのは、もはや対人性愛中心主義の陳腐なピグマリオン神話ではなく、ハロウェイが望む新しいアニミズムの可能性です--境界のサイボーグ的崩壊、または新たな伴侶種の他者:
二十世紀末、私たちの時代という神代に、我々は皆、機械と有機体の混成物であると捏造された、理論化されキメラ、つまりサイボーグです。サイボーグは我々の存在論であり、我々の政治を与えてくれます。サイボーグは想像力と物質的現実の両方を凝縮したイメージであり、歴史的変革の全て可能性を構築する二つの結びついた中心です。(Haraway. 1991. 151.)
まるで…反再現(antirepresentational)的ファンタジーの国におけるリアリズム的表象(realist representation)を探し求めるように…「リアリズム的類似性」という主張は、分析的に新しく興味深い方法で我々が興味を持っている質問を提起しません:キャラクターとは何か?彼らは何を望んでいるのか?彼らはどのようにメディアに住み着き、出没するのか?キャラクターになるための条件と效果は何か?人間中心主義の背景に対して、我々はキャラクター中心リアリズムを提案するかもしれません、これは…我々の一般的人間中心思考を迷わせ(disorient)、人間と非人間の両方の調査フィールドを対称にするための代替案として提供されています。(Nozawa. 2013. 強調原文)
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